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2013.02.22
士規七則 現代語訳
士規七則 彦介の元服に贈る
書物を開いて読めば、素晴らしい言葉の数々は、躍動して人に迫ってくる。しかし、今の人々は書を読まず読んだとしてもそれを実行をしない。 もし本当に書物を読んで実行するならば、千年万年と時間をかけようと行いつくすことはできないはずである。 ああ、私はこれ以上、何を言うべきことがあろうか。何も言う必要はない。 そうは言っても、良き教えを知って、これを人に言わないでおくことができないのは、人の情というものである。 だから古人はこれを古(いにしへ)に述べ、私は今これを述べる。また、どうして悩むことがあろうか。そこでここに、士規七則を作る。
一、およそこの世に生を受けて人となったからには、人が禽獣(きんじゅう)と異なるゆえんを知らなければならない。思うに人には五倫(儒教でいう人として守るべき五つの道「君臣の義」「父子の親」「夫婦の別」「長幼の序」「朋友の信」)がある。そのうち君臣の義、父子の親が最も大切である。だから人の人であるいわれは忠と孝を基本とする。
一、およそ皇国(日本)に生まれたからには、我が国が世界各国より尊ばれる理由を知っていなければならない。思うに、皇室は万世一系であり、武士は代々禄を受け地位を継いでいる。君主は人民を養い、先祖の開かれた道を継がれ、臣民は君主に忠義を尽くし、もって父親の志を継いでいる。君と臣の一体、忠と孝の一致、これは我が国だけがそうなのである。
一、士の道は、義より大切なものはない。義は勇気を持つことによって実行され、勇気は義に基づくことによってよって更に沸くものである。
一、士たる者の行動は真面目で、自分の心をあざむかないことが肝要である。いつわりに巧みであったり、あやまちをごまかすことを恥とする。公正で私心がなく正しく堂々とした態度は、みなここから生ずるものなのである。
一、人たる者で、現在および昔のことを学ばず、また心ある立派な聖人や賢者を師とせず、自己の修業をおこたるようでは、心のいやしい狭量な男となってしまうだけである。読書や賢人を友とするのは立派な人のなすべきことである。
一、徳を厚くし才能を磨くには、師の恩や友人からの益によるところが大きい。それゆえに立派な人はつまらない人との交際を慎重にする。
一、死してのちやむの四字(死而後己:死ぬまでやり続ける)は、言葉は簡単であるがその意味は広いものがある。意志が固く我慢強く、果断に実行し、断固として心を変えないのは、この死してのちやむの精神をほかにしては道がないのである。
右の士規七則は、これを要約すれば三つになる。すなわち、「志を立てて万事の源とする。交友を選んで正しい生き方の助けとする。書物を読んで聖賢の教えを考え究める」ことである。武士として、まことにこの三つのことを修め得ることができれば、人格・教養の備わった立派な人ということができよう。
原文掲載ページ
書物を開いて読めば、素晴らしい言葉の数々は、躍動して人に迫ってくる。しかし、今の人々は書を読まず読んだとしてもそれを実行をしない。 もし本当に書物を読んで実行するならば、千年万年と時間をかけようと行いつくすことはできないはずである。 ああ、私はこれ以上、何を言うべきことがあろうか。何も言う必要はない。 そうは言っても、良き教えを知って、これを人に言わないでおくことができないのは、人の情というものである。 だから古人はこれを古(いにしへ)に述べ、私は今これを述べる。また、どうして悩むことがあろうか。そこでここに、士規七則を作る。
一、およそこの世に生を受けて人となったからには、人が禽獣(きんじゅう)と異なるゆえんを知らなければならない。思うに人には五倫(儒教でいう人として守るべき五つの道「君臣の義」「父子の親」「夫婦の別」「長幼の序」「朋友の信」)がある。そのうち君臣の義、父子の親が最も大切である。だから人の人であるいわれは忠と孝を基本とする。
一、およそ皇国(日本)に生まれたからには、我が国が世界各国より尊ばれる理由を知っていなければならない。思うに、皇室は万世一系であり、武士は代々禄を受け地位を継いでいる。君主は人民を養い、先祖の開かれた道を継がれ、臣民は君主に忠義を尽くし、もって父親の志を継いでいる。君と臣の一体、忠と孝の一致、これは我が国だけがそうなのである。
一、士の道は、義より大切なものはない。義は勇気を持つことによって実行され、勇気は義に基づくことによってよって更に沸くものである。
一、士たる者の行動は真面目で、自分の心をあざむかないことが肝要である。いつわりに巧みであったり、あやまちをごまかすことを恥とする。公正で私心がなく正しく堂々とした態度は、みなここから生ずるものなのである。
一、人たる者で、現在および昔のことを学ばず、また心ある立派な聖人や賢者を師とせず、自己の修業をおこたるようでは、心のいやしい狭量な男となってしまうだけである。読書や賢人を友とするのは立派な人のなすべきことである。
一、徳を厚くし才能を磨くには、師の恩や友人からの益によるところが大きい。それゆえに立派な人はつまらない人との交際を慎重にする。
一、死してのちやむの四字(死而後己:死ぬまでやり続ける)は、言葉は簡単であるがその意味は広いものがある。意志が固く我慢強く、果断に実行し、断固として心を変えないのは、この死してのちやむの精神をほかにしては道がないのである。
右の士規七則は、これを要約すれば三つになる。すなわち、「志を立てて万事の源とする。交友を選んで正しい生き方の助けとする。書物を読んで聖賢の教えを考え究める」ことである。武士として、まことにこの三つのことを修め得ることができれば、人格・教養の備わった立派な人ということができよう。
原文掲載ページ
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2013.02.22
松下村塾記 現代語訳
松下村塾記
長州の国は、山陽の西の端、辺鄙(へんぴ)な所にある。さらに萩城は、中国山地の北にある。しかし、大陸に対しては重要な地である。ここは日本海を背にして山に面し、山陰にあるため曇りがちである。古くは、石見の国(島根県西部)の吉見氏がこの萩に屋敷を造り暮らした所で、昔から歴史の表舞台に上がることはなかった。この地に萩城が築かれてから二百年。今は長州藩政府の所在地である。ここには、山や海の産物が四方から集まり、厳然たる一都会である。そして、萩城の東の外れにあるのが、我が松下村(松本村)である。(中略)
萩城、つまり長州藩が表に出なくなってから随分と時間が過ぎた。しかし、これは本当の姿ではない。これから起こりうる大きな動きの前兆に過ぎない。
東のことを中国では「震」といい、震は「すべてのものが生まれる所」という。東は、震い動かすものの象徴である。萩城、いわゆる長州藩が大きな活動をする時には、その人材は、必ずこの松本村より出るだろう。
昨年、私は野山獄から出ることを許され、松本村の実家にいる。しかし、外の人には会っていない。母方の叔父久保先生と従兄弟たちが時々訪れてくれるので、道徳や学芸を講義している。(中略)
私の一族の盛んなところは、この小さな村を震い動かそうとしていることである。玉木文之進先生は生徒を集めて教えl塾の名前を「松下村塾」とし、入り口に掲げた。その叔父は、すでに官職に就き、塾の名前をしばらく使っていない。久保五郎左衛門先生は、村の子供達を集めて教え、松下村塾の名前をそのまま受け継いだ。(中略)
私はこう思う。「学ぶこと」とは、「人間とは何かを学ぶこと」である。この松本村の人々が、家では父母に孝を尽くし、年長者によく仕え、また外では、主君に忠義を尽くし、他人に信義を尽くせるならば、塾名に村に名前を掲げても、何ら恥じることはない。
そもそも人として最も重んずべきことは、君主と臣下の間で守るべき正しい道(君臣の義)である。また、国において最も大切なことは、日本と外国との違いを明確にすること(華夷の弁)である。今の日本はどうであろうか。君臣の義は、鎌倉幕府から六百年もの間、論じられていないし、近年は華夷の弁も失っている。(中略)
内に対しては君臣の義を失い、外に対しては華夷の弁を忘れるならば、学ことの本当の意味や、人が人としてある意味はどこにあろう。玉木文之進、久保五郎左衛門、二人の先生は、この事態に心を痛められた。私がこの松下村塾記を作らざるを得なかったのは、こういう理由があるからである。
久保五郎左衛門先生は、上に立つ人は、君臣の義、華夷の弁を明らかにし、庶民には「家にあっては父母に孝を尽くし、年長者によく仕え、外においては主君に忠義を尽くし、他人に信義を尽くすことだ」と子弟を教え諭された。優れた人が起ち上がり、この山や川に残る憤りや恨みを変え、我が長州藩を徐々に立派なものにする、つまり萩城を真の姿にするのは「ここ松本村から」としたい。単に立派で優れた場所や都会からだけでではないのである。長州は、西の端にあるとはいえ、日本を奮い起こし、四方の異民族を震い動かすことができる。私は、罪を犯し囚われの身であるが、幸いに一族と共にある。二人の先生の後を継ぐためには、進んで努力をしなければならない。
久保五郎左衛門先生は「お前の言うことが大きすぎて、私だったらそこまではしない。まず、松本村の人に今、何が必要かを聞く」という。
私は答えた。「中国後漢時代の故事によると、月の第一日目に人物を評価したという。それに倣い、私も生徒のために評価しようと思う。基準を三段階に分けて、その中を更に二つに分けて六科にする。そこで、生徒に自分がどの場所にいるかを示し、毎月一日に人物評価の上げ下げをして勤勉か怠惰かを見よう。学問に対する姿勢を『上等』、『中等』、『下等』とする。この三等六科は、志の現れであり、心のあり方である。実行できないことはない。松本村の人々が進んで、お互いに『上等』と評価するようになれば良い。私は、この松下村塾記の初めに、長州に何か起こる前触れがあるとすれば、この松下村塾のある松本村から始まるだろうと書いたが、皆がお互いに進もうとするなら、これは必ずしも大したことではない」。すると、久保先生は「よろしい」と言われた。従ってこれも記しておく。
安政三年丙辰九月 吉田矩方選す
【引用】二十一回猛士(吉田松陰) ザメディアジョン
原文掲載ページ
長州の国は、山陽の西の端、辺鄙(へんぴ)な所にある。さらに萩城は、中国山地の北にある。しかし、大陸に対しては重要な地である。ここは日本海を背にして山に面し、山陰にあるため曇りがちである。古くは、石見の国(島根県西部)の吉見氏がこの萩に屋敷を造り暮らした所で、昔から歴史の表舞台に上がることはなかった。この地に萩城が築かれてから二百年。今は長州藩政府の所在地である。ここには、山や海の産物が四方から集まり、厳然たる一都会である。そして、萩城の東の外れにあるのが、我が松下村(松本村)である。(中略)
萩城、つまり長州藩が表に出なくなってから随分と時間が過ぎた。しかし、これは本当の姿ではない。これから起こりうる大きな動きの前兆に過ぎない。
東のことを中国では「震」といい、震は「すべてのものが生まれる所」という。東は、震い動かすものの象徴である。萩城、いわゆる長州藩が大きな活動をする時には、その人材は、必ずこの松本村より出るだろう。
昨年、私は野山獄から出ることを許され、松本村の実家にいる。しかし、外の人には会っていない。母方の叔父久保先生と従兄弟たちが時々訪れてくれるので、道徳や学芸を講義している。(中略)
私の一族の盛んなところは、この小さな村を震い動かそうとしていることである。玉木文之進先生は生徒を集めて教えl塾の名前を「松下村塾」とし、入り口に掲げた。その叔父は、すでに官職に就き、塾の名前をしばらく使っていない。久保五郎左衛門先生は、村の子供達を集めて教え、松下村塾の名前をそのまま受け継いだ。(中略)
私はこう思う。「学ぶこと」とは、「人間とは何かを学ぶこと」である。この松本村の人々が、家では父母に孝を尽くし、年長者によく仕え、また外では、主君に忠義を尽くし、他人に信義を尽くせるならば、塾名に村に名前を掲げても、何ら恥じることはない。
そもそも人として最も重んずべきことは、君主と臣下の間で守るべき正しい道(君臣の義)である。また、国において最も大切なことは、日本と外国との違いを明確にすること(華夷の弁)である。今の日本はどうであろうか。君臣の義は、鎌倉幕府から六百年もの間、論じられていないし、近年は華夷の弁も失っている。(中略)
内に対しては君臣の義を失い、外に対しては華夷の弁を忘れるならば、学ことの本当の意味や、人が人としてある意味はどこにあろう。玉木文之進、久保五郎左衛門、二人の先生は、この事態に心を痛められた。私がこの松下村塾記を作らざるを得なかったのは、こういう理由があるからである。
久保五郎左衛門先生は、上に立つ人は、君臣の義、華夷の弁を明らかにし、庶民には「家にあっては父母に孝を尽くし、年長者によく仕え、外においては主君に忠義を尽くし、他人に信義を尽くすことだ」と子弟を教え諭された。優れた人が起ち上がり、この山や川に残る憤りや恨みを変え、我が長州藩を徐々に立派なものにする、つまり萩城を真の姿にするのは「ここ松本村から」としたい。単に立派で優れた場所や都会からだけでではないのである。長州は、西の端にあるとはいえ、日本を奮い起こし、四方の異民族を震い動かすことができる。私は、罪を犯し囚われの身であるが、幸いに一族と共にある。二人の先生の後を継ぐためには、進んで努力をしなければならない。
久保五郎左衛門先生は「お前の言うことが大きすぎて、私だったらそこまではしない。まず、松本村の人に今、何が必要かを聞く」という。
私は答えた。「中国後漢時代の故事によると、月の第一日目に人物を評価したという。それに倣い、私も生徒のために評価しようと思う。基準を三段階に分けて、その中を更に二つに分けて六科にする。そこで、生徒に自分がどの場所にいるかを示し、毎月一日に人物評価の上げ下げをして勤勉か怠惰かを見よう。学問に対する姿勢を『上等』、『中等』、『下等』とする。この三等六科は、志の現れであり、心のあり方である。実行できないことはない。松本村の人々が進んで、お互いに『上等』と評価するようになれば良い。私は、この松下村塾記の初めに、長州に何か起こる前触れがあるとすれば、この松下村塾のある松本村から始まるだろうと書いたが、皆がお互いに進もうとするなら、これは必ずしも大したことではない」。すると、久保先生は「よろしい」と言われた。従ってこれも記しておく。
安政三年丙辰九月 吉田矩方選す
【引用】二十一回猛士(吉田松陰) ザメディアジョン
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2013.02.22
留魂録 全文 現代語訳
身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
十月二十五日 二十一回猛士(松陰が使用した号の一つ)
【第一章】
私の気持ちは昨年から何度も移り変わり、それは数えきれないほどである。とりわけ私が趙の貫高や、楚の屈平のようにありたいとしてきたのは皆の知る通りである。だから、入江杉蔵(九一)が送別の句に、「燕や趙の国には多くの人がいるが、貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を思う人は屈平だけだった」という送別の句を贈ってくれたのである。しかるに、五月十一日、江戸送りのことを聞いてから、「誠」という言葉について考えた。この時に入江杉蔵が「死」の文字を贈ってくれた。私はそのことについては考えず。一枚の木綿の布に「孟子にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の句を縫い付けて江戸へ持参した。これを評諚所に留め置いたのは、私の志を表す為であった。昨年から(安政5年)、朝廷と幕府の間では意思が通じていないようだ。いやしくも私の真心が伝われば自ずと幕府の役人も分かってくれる、そう想いを決め、やらなければならないことを考えた。しかし、蚊のような小さな虫でも群れを成せば山を覆ってしまうとの例え通り、幕府の小役人たちに握りつぶされ、とうとう何もできないまま、今日に至ってしまった。私のの徳が薄いので至誠を通じることができなかったと受け取るべきであろう。今さら誰を咎め怨むことがあろうか。誰も怨むことはない。
【第二章】
七月九日、初めて評定所から呼び出しがあった。三奉行(寺社奉行・松平伯耆守宗秀、勘定奉行・池田播磨守頼方、町奉行石・谷因幡守穆清)の取調べがあり、次の二点について私を尋問した。一つは梅田雲浜(うめだうんぴん)が萩へ来たとき何か密談をしたのではないか、ということ。二つ目は「御所内に落とし文があったが、筆跡が似ているのでお前が書いたのではないか。覚えがあるのではないか」と尋ねられた。訊問は、この二点だけであった。梅田は奸計に長けていると感じるところがあり、私は「梅田は胸襟を開いて語り明かすほどの者ではない。そういう意味で彼と密議などするはずがない。私は公明正大であることを好む。どうして落文などという隠れごとをしようか」とはっきり答えた。その後、私は六年間幽囚の身で苦心して確信した所説を披歴し、ついに大原重徳を萩に迎え、長州藩を中心として志ある藩で挙兵しようという計画したこと、さらに老中・間部詮勝の要撃計画を話したので、獄に入れられる身となった。
【第三章】
私は激しい性格で人から罵られると我慢が出来ない。そのため、今回は時の流れに従って人々の感情に適応するように心がけてきた。だから、幕吏に対しても、幕府が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのはやむをえないことであると述べた上で、その後の措置こそが肝要であると論じた。そこで私が説こうとするのはすでに「対策一道」に書いたとおりである。こうした私の姿勢には幕吏もさすがに怒ることはなかった。私の説に対し幕吏は「言っていることが全て的を得ているとは思えず、身分の低い者でありながら国家の大事を論ずることは不届きである」と弁じた。私はそれに抗わず論争を避け、ただ「このことが罪になるというのなら、それを避けようとは思わない」とだけ述べた。幕府の法では、庶民が国を憂うことを許していない。その善し悪しについては、私もこれまで議論をしたことはなかった。
聞くところによると、薩摩藩の日下部伊三次は、取り調べの際に、幕府の失政を次々にあげ、「このようなことを続けていれば、幕府はこの先、三年や五年も保つことができないだろう」と述べて幕吏を激怒させた。さらに「これで死罪になろうとも悔いはない」と云い放ったという。この気概は私も及ばないところである。私は、入江杉蔵が私に死を覚悟するよう求めたのも、こういう意味なのかもしれない。思えば、唐の人、段秀実は郭曦には誠意を尽くし、朱泚には激しく非難しために殺された。こうして見ると、英雄と云われるべき人物は時と所により、それにふさわしい態度で臨んだ。大事なことは自分を省みて良心に恥じることがないことである。そして、相手をよく知り、良い機会をとらえることが大切なのである。私の人としての価値は、死後に棺を蓋で覆って始めて評価されるべきものである。
【第四章】
このたびの調書は、はなはだ粗略なものである。七月九日に一通リ申し立てた後、九月五日、十月五日の両度の呼出の時も大した取り調べもないままに十月十六日に至り、供述書を読み聞かせあり、直ちに署名せよとの事であった。私が苦心をして述べたアメリカ使節との外交交渉や海外渡航の雄大な計画に関する考えは一つも書かれず、ただ数か所のみ開港の事に触れ、国力充実の後、打払うべきなどと、私の心の真意ではない愚にもつかないようなことを書き付けて供述書としていた。私は、言っても無駄であることを悟り、敢えて抗弁しなかったが、不満が甚だしく残った。安政元年の下田踏海での取調書と比べると雲泥の差だというほかない。
【第五章】
七月九日、大原重徳公を長州に迎える策、老中間部詮勝要撃策の事を一通り申し述べた。これらのことは幕府も既に事前情報で承知していると思われたので、誤解なきように明白に述べておいた方が却って良かろうと思い申し立てしたが、幕府は全く知らなかったようであった。幕府の知らないことまで述べて、多くの仲間内に累が及び無関係の人を傷つけることになり、毛を吹いて傷を求めるという喩えのように、強いて他人の欠点を探し求めれば、かえってこちらの欠点をさらすことになるに等しいと思い直した。だから、間部要撃の件についても「待ち伏せて襲撃する要撃」から「待ち伏せて諌める要諌」と言い替えた。又、京都で連判した同志の姓名なども、隠して明らかにしなかった。これは、後の運動の為を思ってしたささやかな私の老婆心からである。これにより、幕府が、私一人を罰して他に累を及ぼさなかったのは大変喜ぶべきことであろう。同志諸君、この辺りの事を深く考え起ち上がって欲しい。
【第六章】
間部「要諌」の件で、もし諌めることが出来なかった時は刺し違えて死に、警護の者がこれを邪魔する時は切り払うつもりだったとは、実際には私が云っていないことである。ところが三奉行が強いてそのように書き記し、私を罪に陥れようとした。そのような偽りの罪をどうして受け入れられようか。そこで私は十六日、供述書の署名の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに言い争った。私は、死を恐れたのではない。両奉行の権力によるごまかしに屈服しない為である。これより先の九月五日、十月五日の両度の取り調べの際に、吟味役に詳細に話したことは、命を掛け間部を諌めようとしたことであり、必ずしも刺し違えや切り払いの策を講じていたのではないということだった。吟味役もこのことを十分に認めていたのに、供述書には「要撃」と書き記されているのはごまかし以外の何物でもない。だが、事ここに至っては刺し違え、切り払いのことを私があくまで否定したのでは却って我々の信念の激烈を欠くことになり、同志の諸友も惜しいと思うであろう。私も惜しいと思わない訳ではない。しかし、繰り返し考えると、志士たる者が仁のために死ぬにあたり、「刺し違える」とか「切り払う」などの言葉の問題ではない。今日私は、権力の奸計によって殺されるのである。全ては天地神明の照鑑(しょうかん)上にある。何を惜しむことはないであろう。
【第七章】
私は、このたびのことで最初から生を得ようとは考えなかった。また、死を求めたこともない。ただ、自分の誠が通じるかを天に委ねてきた。七月九日、取り調べを行った役人の態度からほぼ死を覚悟した。私はそれを詩に書き留めた。「明の国の楊継盛という人は、政治の実権を握った厳嵩の横暴を訴えたことにより処刑されたが、忠誠を貫いて死んだことに満足したであろう。漢の名医・淳干意は、罰せられた時、命乞いをしてまで生きることを望まなかったであろう」。ところが、その後の九月五日、十月五日の二度の取調べが寛容なものだったために欺かれ、ひょっとしたら死罪を逃れることができるかと思い、これを喜んだ。これは、私が命を惜しんだのではない。昨年の大晦日(安政五年十二月三十日)、攘夷は一時猶予、いずれ公武合体により攘夷すべしとの勅状が幕府に下った。今春の三月五日、長州藩主・毛利敬親公は萩を出発した。敬親公を伏見で迎え公卿と会って頂き、そこで攘夷の働きかけをしようとした私の計画は、ここで完全に失敗した。そこで万策尽きたので死を求める気持ちが強くわき起こってきた。しかるに六月末、江戸に来て、外国人の様子を見聞きし、七月九日、獄に繋がれたてからも、天下の形勢を考察するうちに、日本の為に私が為さねばならないことをがあると悟り、ここで初めて生きたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのである。私が死罪とならない限り、この心にわき立つ気概は決してなくなることはないだろう。しかし、十六日に行われた調書の読み聞かせで、裁きを担当する三奉行がどうあっても私を処刑にせんとしていることがはっきりし、生を願う気持ちはをなくなった。私がこういう気持になれたのも、平素の学問の力であろう。
【第八章】
今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環について悟るところあるからである。つまり、農事では春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを私は聞いたことがない。
私は現在三十歳。いまだ事を成就させることなく死のうとしている。農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ているから、そういう意味では生を惜しむべきなのかもしれない。だが、私自身についていえば、私なりの花が咲き実りを迎えたときなのだと思う。そう考えると必ずしも悲しむことではない。なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い定まりがない。農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。
しかしながら、人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。百歳をもって長いというのも長寿の霊椿を蝉の如く短命にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なる籾殻(もみがら)なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、何ら恥ずべきことではない。同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。
【第九章】
東口揚屋(松陰は西口にいた)にいる水戸の郷士・堀江克之助(ほりえよしのすけ)とはこれまで一度もあったことはなかったが、しかし、彼は真の知己であり有益な友である。彼が私に言った。「その昔、幕臣の矢部駿州は、政策の違いから桑名藩へお預けとなり、その日より絶食して仇敵を呪って死に絶えましたが、その後、彼の制作が正しかったことが証明され、ついには仇敵を失脚させることができました。今、あなたも自ら死を決意するからには、心に念じて内外の敵を打ち払うことです。そして、その心をこの世に書き残しておいて下さい」と、丁寧に忠告してくれた。私は、その言葉に心から感服した。又、水戸藩士であり、堀江と同じ獄にいる鮎沢伊太夫(あゆざわいだゆう)は私に告げて言った。「あなたの沙汰がどう出るかは分からないが、もし自分が遠島にされれば天下の事は全て天命に委ねるしかあるまい。但し、天下の益になることについては同志に託して、言い置くべきことを伝えておかねばならないと考えます」。この言葉は、私と意を同じくするものだった。私が心に念じることは、同志が私の志を継承し、必ずや尊皇攘夷に大きな功を立ててほしいということである。私が死んでも、堀江、鮎沢の両氏は遠島になろうが獄にいようが、私の同志たらんとする者は彼らと交わりを結んで欲しい。又、本所亀沢町に山口三輶(やまぐちさんゆう)という人がいる。彼は義に厚い人のようで、堀江、鮎沢の両氏を獄外から支援されている。私がこの人に及ばないと思ったのは、小林民部(こばやしみんぶ)のことを、堀江、鮎沢の両氏から伝え聞き、小林の為にも尽力していることだ。この人は思うに、非凡な人だと思われる。この三人へ連絡するには、この三人をよく知る山口三輶に頼んだらよい。
【第十章】
堀江克之助は神道を崇め、天皇を崇敬し、その御政道を明らかにし、異端や邪説を排除せんと望んでいる。彼は、朝廷から教書を発行して、天下に。配布するのが良いと考えている。私が思うに、教書の発行をするには一つの方法があると思う。それは身分のわけ隔てなく学ぶことが出来る大学を京都につくり、天朝の学風を天下に示すことだ。全国の優秀な才能、人材を京都に集め、天下古今の正論、定説を編集して書物をつくり、それを朝廷で教習したのち、これを世に広めていけば、人心はおのずから定まるだろう。そこで、私が平素より入江杉蔵と密議し、尊攘堂建設のことを堀江に相談し、この役を杉蔵に任すことに決めた。杉蔵がよく同志と相談し、内外の同志から協力を得ることが出来れば、私の志した計画も無駄にはならないであろう。去年、勅諚や綸旨を得ようとした企ては失敗したが、尊皇攘夷運動は決してやめるべきではないから、よい方法を考え、先人の志を継承せねばならない。そのためにも、京都に学校を作ることは素晴らしいことではあるまいか。
【第十一章】
小林民部が言うには、京都の学習院は日を決めて百姓町人に至るまで出席させて講釈を聴聞することが許されている。講義の日には、公卿方が出向き、講師として菅原家、清原家及び官位を持たない儒者も加わり行われるそうだ。これを基本にして考えれば、更によい方法が見つかることだろう。又、大阪の懐德堂には、霊元上皇の直筆の扁額(門や部屋に掛ける横に長い額)があるので、これを基としてもう一つの学校を起すのも良い考えだと言っている。小林民部は、公卿である鷹司家の諸大夫であるが、このたび遠島の罪科に処せらている。安政の大獄に連座した京都の同志の中でも罪が大変重い。この人は、有能にして芸事深い方であるが、文学にはあまり深くないようだ。ただ、物事を的確に処理する才能を持つ人らしい。伝馬町の西奥揚屋牢にて私と同居だったが、後に東口に移された。小林は、京都の吉田神社の鈴鹿石州や筑州とは特に親しいということだ。又、江戸の山口三輶も小林の為に大いに尽力しており、鈴鹿か山口を通じて遠島先の小林まで連絡を取ることを同志に勧めたい。京都で事をなす時は、必ずや力になってくれるであろう。
【第十二章】
讃岐の高松藩士・長谷川宗右衛門は、数年にわたり藩主を諌め、藩主と水戸藩との周旋につとめ苦心した人物である。今、彼は息子の速水と共に捕らえられ、彼は東の牢屋に、息子の速水は西の牢屋で私と一緒だが、この父子の罪を私は未だに知らない。私が初めて長谷川翁を見た時、そこには獄吏が立っていて言葉を交わせなかったが、彼は独り言のようにして次のように言った。「玉(ぎょく)となって砕(くだ)かれようとも、瓦(かわら)となって生きながらえてはならない」。私はその言葉に深く感動した。同志諸君、その時の私の気持ちを察して欲しい。
【第十三章】
今まで書き記したことは、無駄に書き留めたものではない。天下の事を成功させるためには、天下の有志の士と志を通じなければ達成し得ない。そこで、私がここに記した数人のことは、このたび新たに知り得た人物だから、これを同志に知らせておく。なお、勝野保三郎は既に出牢している。したがって、何かのことについて彼に詳細を問尋ねるがよい。勝野の父の豐作は今潜伏中だが、有志の士と聞いている。いずれ、頃合いをみて探し出すのが良かろう。今日の事、同志の諸士は、安政の大獄という戦いに敗れ傷ついた志士にそのいきさつを聞き、今後の参考にするがよい。一度失敗したからといって挫折するようでは、どうして勇士といえようか。このことを切に頼む。頼むぞ。
【第十四章】
越前の橋本左内は二十六歳にして処刑された。十月七日のことであった。左内は東奥の牢に五、六日ばかり居ただけで処刑されたのである。その時、勝野保太郎が橋本左内と同獄だった。後に勝野は、西奥の牢に来て私と同獄となったが、私は、勝野から左内の話を聞いてますます左内と会えなかったことを残念に思っている。左内は、自邸内に幽閉されていた時、「資治通鑑」を読み、注釈を書き、「漢紀」も読破したという。又、獄中では、「教学や技術の事についていろいろと論じた」と勝野は私に話してくれた。勝野は、私の為にこれを語ってくれたが、左内の獄中の論は、私を大いに納得させた。私は、ますます左内を甦らせて議論をしてみたいと思うが、左内はもうこの世にいない。ああ、とても残念なことだ。
【第十五章】
僧・月性の護国論及び吟稿、口羽徳祐の詩稿、いずれも天下同志の士に見せたいと思う。そこで私は、これを水戸藩の鮎沢伊太夫に贈ることを約束した。同志のうち誰か私に代わってこの約束を果たしてくれるとありがたい。
【第十六章】
同志諸友の内、小田村伊之助、中谷正亮、久保清太郎、久坂玄瑞、入江杉蔵と野村和作兄弟たちのことを、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野たちヘよく話しておいた。松下村塾の事、須佐、阿月の同志の事、飯田正伯、尾寺新之丞、高杉晋作及び伊藤利輔(後の博文)の事もこれらの人に話しておいた。これは私が軽い気持ちで話したのではないということは分かってほしい。
【かきつけが終わった後に】
「心なることの種々かき置ぬ 思ひ残せることなかりけり」
「呼びだしの声まつ外に 今の世に待つべき事のなかりけるかな」
「討れたる吾をあわれと見ん人は 君を崇めて夷(えびす)払へよ」
「愚かなる吾をも友とめづ人は わがとも友とめでよ人々」
「七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘はんこころ 吾忘れめや」
十月二十六日黄昏に書く 二十一回猛士
原文掲載ページ
十月二十五日 二十一回猛士(松陰が使用した号の一つ)
【第一章】
私の気持ちは昨年から何度も移り変わり、それは数えきれないほどである。とりわけ私が趙の貫高や、楚の屈平のようにありたいとしてきたのは皆の知る通りである。だから、入江杉蔵(九一)が送別の句に、「燕や趙の国には多くの人がいるが、貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を思う人は屈平だけだった」という送別の句を贈ってくれたのである。しかるに、五月十一日、江戸送りのことを聞いてから、「誠」という言葉について考えた。この時に入江杉蔵が「死」の文字を贈ってくれた。私はそのことについては考えず。一枚の木綿の布に「孟子にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の句を縫い付けて江戸へ持参した。これを評諚所に留め置いたのは、私の志を表す為であった。昨年から(安政5年)、朝廷と幕府の間では意思が通じていないようだ。いやしくも私の真心が伝われば自ずと幕府の役人も分かってくれる、そう想いを決め、やらなければならないことを考えた。しかし、蚊のような小さな虫でも群れを成せば山を覆ってしまうとの例え通り、幕府の小役人たちに握りつぶされ、とうとう何もできないまま、今日に至ってしまった。私のの徳が薄いので至誠を通じることができなかったと受け取るべきであろう。今さら誰を咎め怨むことがあろうか。誰も怨むことはない。
【第二章】
七月九日、初めて評定所から呼び出しがあった。三奉行(寺社奉行・松平伯耆守宗秀、勘定奉行・池田播磨守頼方、町奉行石・谷因幡守穆清)の取調べがあり、次の二点について私を尋問した。一つは梅田雲浜(うめだうんぴん)が萩へ来たとき何か密談をしたのではないか、ということ。二つ目は「御所内に落とし文があったが、筆跡が似ているのでお前が書いたのではないか。覚えがあるのではないか」と尋ねられた。訊問は、この二点だけであった。梅田は奸計に長けていると感じるところがあり、私は「梅田は胸襟を開いて語り明かすほどの者ではない。そういう意味で彼と密議などするはずがない。私は公明正大であることを好む。どうして落文などという隠れごとをしようか」とはっきり答えた。その後、私は六年間幽囚の身で苦心して確信した所説を披歴し、ついに大原重徳を萩に迎え、長州藩を中心として志ある藩で挙兵しようという計画したこと、さらに老中・間部詮勝の要撃計画を話したので、獄に入れられる身となった。
【第三章】
私は激しい性格で人から罵られると我慢が出来ない。そのため、今回は時の流れに従って人々の感情に適応するように心がけてきた。だから、幕吏に対しても、幕府が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのはやむをえないことであると述べた上で、その後の措置こそが肝要であると論じた。そこで私が説こうとするのはすでに「対策一道」に書いたとおりである。こうした私の姿勢には幕吏もさすがに怒ることはなかった。私の説に対し幕吏は「言っていることが全て的を得ているとは思えず、身分の低い者でありながら国家の大事を論ずることは不届きである」と弁じた。私はそれに抗わず論争を避け、ただ「このことが罪になるというのなら、それを避けようとは思わない」とだけ述べた。幕府の法では、庶民が国を憂うことを許していない。その善し悪しについては、私もこれまで議論をしたことはなかった。
聞くところによると、薩摩藩の日下部伊三次は、取り調べの際に、幕府の失政を次々にあげ、「このようなことを続けていれば、幕府はこの先、三年や五年も保つことができないだろう」と述べて幕吏を激怒させた。さらに「これで死罪になろうとも悔いはない」と云い放ったという。この気概は私も及ばないところである。私は、入江杉蔵が私に死を覚悟するよう求めたのも、こういう意味なのかもしれない。思えば、唐の人、段秀実は郭曦には誠意を尽くし、朱泚には激しく非難しために殺された。こうして見ると、英雄と云われるべき人物は時と所により、それにふさわしい態度で臨んだ。大事なことは自分を省みて良心に恥じることがないことである。そして、相手をよく知り、良い機会をとらえることが大切なのである。私の人としての価値は、死後に棺を蓋で覆って始めて評価されるべきものである。
【第四章】
このたびの調書は、はなはだ粗略なものである。七月九日に一通リ申し立てた後、九月五日、十月五日の両度の呼出の時も大した取り調べもないままに十月十六日に至り、供述書を読み聞かせあり、直ちに署名せよとの事であった。私が苦心をして述べたアメリカ使節との外交交渉や海外渡航の雄大な計画に関する考えは一つも書かれず、ただ数か所のみ開港の事に触れ、国力充実の後、打払うべきなどと、私の心の真意ではない愚にもつかないようなことを書き付けて供述書としていた。私は、言っても無駄であることを悟り、敢えて抗弁しなかったが、不満が甚だしく残った。安政元年の下田踏海での取調書と比べると雲泥の差だというほかない。
【第五章】
七月九日、大原重徳公を長州に迎える策、老中間部詮勝要撃策の事を一通り申し述べた。これらのことは幕府も既に事前情報で承知していると思われたので、誤解なきように明白に述べておいた方が却って良かろうと思い申し立てしたが、幕府は全く知らなかったようであった。幕府の知らないことまで述べて、多くの仲間内に累が及び無関係の人を傷つけることになり、毛を吹いて傷を求めるという喩えのように、強いて他人の欠点を探し求めれば、かえってこちらの欠点をさらすことになるに等しいと思い直した。だから、間部要撃の件についても「待ち伏せて襲撃する要撃」から「待ち伏せて諌める要諌」と言い替えた。又、京都で連判した同志の姓名なども、隠して明らかにしなかった。これは、後の運動の為を思ってしたささやかな私の老婆心からである。これにより、幕府が、私一人を罰して他に累を及ぼさなかったのは大変喜ぶべきことであろう。同志諸君、この辺りの事を深く考え起ち上がって欲しい。
【第六章】
間部「要諌」の件で、もし諌めることが出来なかった時は刺し違えて死に、警護の者がこれを邪魔する時は切り払うつもりだったとは、実際には私が云っていないことである。ところが三奉行が強いてそのように書き記し、私を罪に陥れようとした。そのような偽りの罪をどうして受け入れられようか。そこで私は十六日、供述書の署名の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに言い争った。私は、死を恐れたのではない。両奉行の権力によるごまかしに屈服しない為である。これより先の九月五日、十月五日の両度の取り調べの際に、吟味役に詳細に話したことは、命を掛け間部を諌めようとしたことであり、必ずしも刺し違えや切り払いの策を講じていたのではないということだった。吟味役もこのことを十分に認めていたのに、供述書には「要撃」と書き記されているのはごまかし以外の何物でもない。だが、事ここに至っては刺し違え、切り払いのことを私があくまで否定したのでは却って我々の信念の激烈を欠くことになり、同志の諸友も惜しいと思うであろう。私も惜しいと思わない訳ではない。しかし、繰り返し考えると、志士たる者が仁のために死ぬにあたり、「刺し違える」とか「切り払う」などの言葉の問題ではない。今日私は、権力の奸計によって殺されるのである。全ては天地神明の照鑑(しょうかん)上にある。何を惜しむことはないであろう。
【第七章】
私は、このたびのことで最初から生を得ようとは考えなかった。また、死を求めたこともない。ただ、自分の誠が通じるかを天に委ねてきた。七月九日、取り調べを行った役人の態度からほぼ死を覚悟した。私はそれを詩に書き留めた。「明の国の楊継盛という人は、政治の実権を握った厳嵩の横暴を訴えたことにより処刑されたが、忠誠を貫いて死んだことに満足したであろう。漢の名医・淳干意は、罰せられた時、命乞いをしてまで生きることを望まなかったであろう」。ところが、その後の九月五日、十月五日の二度の取調べが寛容なものだったために欺かれ、ひょっとしたら死罪を逃れることができるかと思い、これを喜んだ。これは、私が命を惜しんだのではない。昨年の大晦日(安政五年十二月三十日)、攘夷は一時猶予、いずれ公武合体により攘夷すべしとの勅状が幕府に下った。今春の三月五日、長州藩主・毛利敬親公は萩を出発した。敬親公を伏見で迎え公卿と会って頂き、そこで攘夷の働きかけをしようとした私の計画は、ここで完全に失敗した。そこで万策尽きたので死を求める気持ちが強くわき起こってきた。しかるに六月末、江戸に来て、外国人の様子を見聞きし、七月九日、獄に繋がれたてからも、天下の形勢を考察するうちに、日本の為に私が為さねばならないことをがあると悟り、ここで初めて生きたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのである。私が死罪とならない限り、この心にわき立つ気概は決してなくなることはないだろう。しかし、十六日に行われた調書の読み聞かせで、裁きを担当する三奉行がどうあっても私を処刑にせんとしていることがはっきりし、生を願う気持ちはをなくなった。私がこういう気持になれたのも、平素の学問の力であろう。
【第八章】
今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環について悟るところあるからである。つまり、農事では春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを私は聞いたことがない。
私は現在三十歳。いまだ事を成就させることなく死のうとしている。農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ているから、そういう意味では生を惜しむべきなのかもしれない。だが、私自身についていえば、私なりの花が咲き実りを迎えたときなのだと思う。そう考えると必ずしも悲しむことではない。なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い定まりがない。農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。
しかしながら、人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。百歳をもって長いというのも長寿の霊椿を蝉の如く短命にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なる籾殻(もみがら)なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、何ら恥ずべきことではない。同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。
【第九章】
東口揚屋(松陰は西口にいた)にいる水戸の郷士・堀江克之助(ほりえよしのすけ)とはこれまで一度もあったことはなかったが、しかし、彼は真の知己であり有益な友である。彼が私に言った。「その昔、幕臣の矢部駿州は、政策の違いから桑名藩へお預けとなり、その日より絶食して仇敵を呪って死に絶えましたが、その後、彼の制作が正しかったことが証明され、ついには仇敵を失脚させることができました。今、あなたも自ら死を決意するからには、心に念じて内外の敵を打ち払うことです。そして、その心をこの世に書き残しておいて下さい」と、丁寧に忠告してくれた。私は、その言葉に心から感服した。又、水戸藩士であり、堀江と同じ獄にいる鮎沢伊太夫(あゆざわいだゆう)は私に告げて言った。「あなたの沙汰がどう出るかは分からないが、もし自分が遠島にされれば天下の事は全て天命に委ねるしかあるまい。但し、天下の益になることについては同志に託して、言い置くべきことを伝えておかねばならないと考えます」。この言葉は、私と意を同じくするものだった。私が心に念じることは、同志が私の志を継承し、必ずや尊皇攘夷に大きな功を立ててほしいということである。私が死んでも、堀江、鮎沢の両氏は遠島になろうが獄にいようが、私の同志たらんとする者は彼らと交わりを結んで欲しい。又、本所亀沢町に山口三輶(やまぐちさんゆう)という人がいる。彼は義に厚い人のようで、堀江、鮎沢の両氏を獄外から支援されている。私がこの人に及ばないと思ったのは、小林民部(こばやしみんぶ)のことを、堀江、鮎沢の両氏から伝え聞き、小林の為にも尽力していることだ。この人は思うに、非凡な人だと思われる。この三人へ連絡するには、この三人をよく知る山口三輶に頼んだらよい。
【第十章】
堀江克之助は神道を崇め、天皇を崇敬し、その御政道を明らかにし、異端や邪説を排除せんと望んでいる。彼は、朝廷から教書を発行して、天下に。配布するのが良いと考えている。私が思うに、教書の発行をするには一つの方法があると思う。それは身分のわけ隔てなく学ぶことが出来る大学を京都につくり、天朝の学風を天下に示すことだ。全国の優秀な才能、人材を京都に集め、天下古今の正論、定説を編集して書物をつくり、それを朝廷で教習したのち、これを世に広めていけば、人心はおのずから定まるだろう。そこで、私が平素より入江杉蔵と密議し、尊攘堂建設のことを堀江に相談し、この役を杉蔵に任すことに決めた。杉蔵がよく同志と相談し、内外の同志から協力を得ることが出来れば、私の志した計画も無駄にはならないであろう。去年、勅諚や綸旨を得ようとした企ては失敗したが、尊皇攘夷運動は決してやめるべきではないから、よい方法を考え、先人の志を継承せねばならない。そのためにも、京都に学校を作ることは素晴らしいことではあるまいか。
【第十一章】
小林民部が言うには、京都の学習院は日を決めて百姓町人に至るまで出席させて講釈を聴聞することが許されている。講義の日には、公卿方が出向き、講師として菅原家、清原家及び官位を持たない儒者も加わり行われるそうだ。これを基本にして考えれば、更によい方法が見つかることだろう。又、大阪の懐德堂には、霊元上皇の直筆の扁額(門や部屋に掛ける横に長い額)があるので、これを基としてもう一つの学校を起すのも良い考えだと言っている。小林民部は、公卿である鷹司家の諸大夫であるが、このたび遠島の罪科に処せらている。安政の大獄に連座した京都の同志の中でも罪が大変重い。この人は、有能にして芸事深い方であるが、文学にはあまり深くないようだ。ただ、物事を的確に処理する才能を持つ人らしい。伝馬町の西奥揚屋牢にて私と同居だったが、後に東口に移された。小林は、京都の吉田神社の鈴鹿石州や筑州とは特に親しいということだ。又、江戸の山口三輶も小林の為に大いに尽力しており、鈴鹿か山口を通じて遠島先の小林まで連絡を取ることを同志に勧めたい。京都で事をなす時は、必ずや力になってくれるであろう。
【第十二章】
讃岐の高松藩士・長谷川宗右衛門は、数年にわたり藩主を諌め、藩主と水戸藩との周旋につとめ苦心した人物である。今、彼は息子の速水と共に捕らえられ、彼は東の牢屋に、息子の速水は西の牢屋で私と一緒だが、この父子の罪を私は未だに知らない。私が初めて長谷川翁を見た時、そこには獄吏が立っていて言葉を交わせなかったが、彼は独り言のようにして次のように言った。「玉(ぎょく)となって砕(くだ)かれようとも、瓦(かわら)となって生きながらえてはならない」。私はその言葉に深く感動した。同志諸君、その時の私の気持ちを察して欲しい。
【第十三章】
今まで書き記したことは、無駄に書き留めたものではない。天下の事を成功させるためには、天下の有志の士と志を通じなければ達成し得ない。そこで、私がここに記した数人のことは、このたび新たに知り得た人物だから、これを同志に知らせておく。なお、勝野保三郎は既に出牢している。したがって、何かのことについて彼に詳細を問尋ねるがよい。勝野の父の豐作は今潜伏中だが、有志の士と聞いている。いずれ、頃合いをみて探し出すのが良かろう。今日の事、同志の諸士は、安政の大獄という戦いに敗れ傷ついた志士にそのいきさつを聞き、今後の参考にするがよい。一度失敗したからといって挫折するようでは、どうして勇士といえようか。このことを切に頼む。頼むぞ。
【第十四章】
越前の橋本左内は二十六歳にして処刑された。十月七日のことであった。左内は東奥の牢に五、六日ばかり居ただけで処刑されたのである。その時、勝野保太郎が橋本左内と同獄だった。後に勝野は、西奥の牢に来て私と同獄となったが、私は、勝野から左内の話を聞いてますます左内と会えなかったことを残念に思っている。左内は、自邸内に幽閉されていた時、「資治通鑑」を読み、注釈を書き、「漢紀」も読破したという。又、獄中では、「教学や技術の事についていろいろと論じた」と勝野は私に話してくれた。勝野は、私の為にこれを語ってくれたが、左内の獄中の論は、私を大いに納得させた。私は、ますます左内を甦らせて議論をしてみたいと思うが、左内はもうこの世にいない。ああ、とても残念なことだ。
【第十五章】
僧・月性の護国論及び吟稿、口羽徳祐の詩稿、いずれも天下同志の士に見せたいと思う。そこで私は、これを水戸藩の鮎沢伊太夫に贈ることを約束した。同志のうち誰か私に代わってこの約束を果たしてくれるとありがたい。
【第十六章】
同志諸友の内、小田村伊之助、中谷正亮、久保清太郎、久坂玄瑞、入江杉蔵と野村和作兄弟たちのことを、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野たちヘよく話しておいた。松下村塾の事、須佐、阿月の同志の事、飯田正伯、尾寺新之丞、高杉晋作及び伊藤利輔(後の博文)の事もこれらの人に話しておいた。これは私が軽い気持ちで話したのではないということは分かってほしい。
【かきつけが終わった後に】
「心なることの種々かき置ぬ 思ひ残せることなかりけり」
「呼びだしの声まつ外に 今の世に待つべき事のなかりけるかな」
「討れたる吾をあわれと見ん人は 君を崇めて夷(えびす)払へよ」
「愚かなる吾をも友とめづ人は わがとも友とめでよ人々」
「七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘はんこころ 吾忘れめや」
十月二十六日黄昏に書く 二十一回猛士
原文掲載ページ
2013.02.22
草莽崛起論 現代語訳 (吉田松陰から北山安世への手紙)
幽囚中の身であるため、当て推量の議論でありますから、はがゆい所も多いと思います。しかしながら、天下の情勢は大体予測することができます。実際、我が国の滅亡を思えば、心が痛み悲しみの極地であります。幕府にはいまだに人物がおりません。些細なことはそれなりに処理できますが、天下国家全体を見極めて、大きく戦略を展開できる人物がいないのです。西欧諸国を制し、思うままに動かす策などなく、逆に着々と彼らに制せされている状況です。ペリー艦隊が来航した嘉永六年、安政元年よりすでに六、七年が過ぎました。しかし現在に至るも、一人の青年の海外渡航さえ全く行われておりません。ワシントンがどこにあるのか、ロンドンがどのような場所にあるか全く想像しているだけであります。このようなことでどうして西欧諸国を制し、思うままに動かすことなどできましょうか。できはしません。
しかし、幕府の役人というものは、みな何の不自由もない生活に慣れたものを知らない馬鹿者や柔軟者の子弟のみであります。ですから、一人二人の心ある立派な人物がいたとしても、周囲がつまらない人物ばかりですので何もできないでありましょう。これを思えば、中国の東晋、南朝や趙、宋(すべて中国の王朝)らが国家を再建することができなかったことも時勢だったのでありましょう。ましてや徳川幕府に出来るわけはありません。幕府が存在するうちは、どこまで米国、ロシア、英国、フランスらに思うままにされるか予測することさえ難しいことであります。誠にため息ばかりです。
しかし、幸い我が国には上に心ある立派な天皇がおられます。天皇は現状に深く心を悩まされておられます。しかし、天皇を取り巻く朝廷の公家たちにはまるでシミ(衣服や書物などを食べる昆虫のこと)のように、徐々にものをそこない破る悪しき習慣があり、それは幕府の役人たちより激しいものがあります。彼らはただ外国人を我が国に近づけては、神州が汚れるというばかりです。古代の我が朝廷の雄々しく、奥深い戦略などは少しもお考えになりません。物事が上手くいかないのもこれが原因であります。諸大名にいたっては、将軍の意向を伺っているのみで何の方針もありません。ですから、将軍が西欧諸国に降参されれば、その後を慕って降参する以外手段がないのです。三千年来、独立し、外国から何の束縛も受けたことのない大日本国が、突然、外国からの干渉を受けることなど、血の気が多く、義侠心に富む者としては、とても忍ぶことなど出来ません。
ナポレオンを生き返らせ、共に「フレーヘード(オランダ語で自由のこと)」と、声高く叫ばねば、今の苦しみや憤りを癒やすことは難しいものがあります。私は最初から、要駕策(藩主・毛利敬親が参勤交代のため伏見を通過する際、敬親の京都入りを説得し、幕府の失政を問いたださせようとする策)など行うべきでないことは分かっておりました。ただ、昨年来、自分の力に色々と天朝、国家のために力を尽くして努力してきたところです。しかし、どれも上手くいかず、無駄に野山獄に座るだけの日々を得ただけでした。これ以外の策をみだりに口にでもすれば、罪は一族全てに罪が及ぶこととなるかもしれません。しかし、今の幕府や諸大名らはすでに酔っ払いのようなもので、助ける術などもはやありません。草莽崛起(そうもうくっき:在野の人々が立ち上がること)を望む以外、頼みとするものはありません。けれども、私は毛利様からいただいたご恩と、朝廷のありがたい御徳は、どうしても忘れることが出来ません。草莽崛起の勢力をもって我が長州藩を支え、また天朝のご中興(衰えたものを再び盛んにすること)を補佐することができるのであれば、分を超えた行為のようではありますが、それは我が神州に大きな功績のある人というべきでありましょう。そのような人は管仲(春秋時代、斉の桓公に仕えた名宰相)に並ぶ、立派な人物といえましょう。(中略)
今のままでは神州の滅亡は間違いありません。本来の我が国にするには、劉邦や項羽、ナポレオンなどのような人物でなければ難しいことでしょう。しかしながら、今もってここに目をつける人がおりません。あなたは、人が思いもよらないような優れた見識を持つ武士です。どうか、あなたのお考えをお聞かせ頂きたいと願っております。
己未(安政六年:1859年)四月七日 辱交弟寅二白す(かたじけなくも弟としておつきあい頂いている寅次郎が申し上げる)
北山君 座下(手紙の宛名に添えて敬意を表す言葉)
私は野山獄に収監されておりますのでお会いすることは実に難しいかと思います。その上、臭く、汚い獄舎へお越し頂くのは大変失礼に存じます。しかしながら、萩へおいでになる時には、是非直接お会いし、心に思うことを全て語り合いたい、と昨年来より願い、待ち続けておりました。事を成就することは、衷心よりの願いであります。
原文掲載ページ
しかし、幕府の役人というものは、みな何の不自由もない生活に慣れたものを知らない馬鹿者や柔軟者の子弟のみであります。ですから、一人二人の心ある立派な人物がいたとしても、周囲がつまらない人物ばかりですので何もできないでありましょう。これを思えば、中国の東晋、南朝や趙、宋(すべて中国の王朝)らが国家を再建することができなかったことも時勢だったのでありましょう。ましてや徳川幕府に出来るわけはありません。幕府が存在するうちは、どこまで米国、ロシア、英国、フランスらに思うままにされるか予測することさえ難しいことであります。誠にため息ばかりです。
しかし、幸い我が国には上に心ある立派な天皇がおられます。天皇は現状に深く心を悩まされておられます。しかし、天皇を取り巻く朝廷の公家たちにはまるでシミ(衣服や書物などを食べる昆虫のこと)のように、徐々にものをそこない破る悪しき習慣があり、それは幕府の役人たちより激しいものがあります。彼らはただ外国人を我が国に近づけては、神州が汚れるというばかりです。古代の我が朝廷の雄々しく、奥深い戦略などは少しもお考えになりません。物事が上手くいかないのもこれが原因であります。諸大名にいたっては、将軍の意向を伺っているのみで何の方針もありません。ですから、将軍が西欧諸国に降参されれば、その後を慕って降参する以外手段がないのです。三千年来、独立し、外国から何の束縛も受けたことのない大日本国が、突然、外国からの干渉を受けることなど、血の気が多く、義侠心に富む者としては、とても忍ぶことなど出来ません。
ナポレオンを生き返らせ、共に「フレーヘード(オランダ語で自由のこと)」と、声高く叫ばねば、今の苦しみや憤りを癒やすことは難しいものがあります。私は最初から、要駕策(藩主・毛利敬親が参勤交代のため伏見を通過する際、敬親の京都入りを説得し、幕府の失政を問いたださせようとする策)など行うべきでないことは分かっておりました。ただ、昨年来、自分の力に色々と天朝、国家のために力を尽くして努力してきたところです。しかし、どれも上手くいかず、無駄に野山獄に座るだけの日々を得ただけでした。これ以外の策をみだりに口にでもすれば、罪は一族全てに罪が及ぶこととなるかもしれません。しかし、今の幕府や諸大名らはすでに酔っ払いのようなもので、助ける術などもはやありません。草莽崛起(そうもうくっき:在野の人々が立ち上がること)を望む以外、頼みとするものはありません。けれども、私は毛利様からいただいたご恩と、朝廷のありがたい御徳は、どうしても忘れることが出来ません。草莽崛起の勢力をもって我が長州藩を支え、また天朝のご中興(衰えたものを再び盛んにすること)を補佐することができるのであれば、分を超えた行為のようではありますが、それは我が神州に大きな功績のある人というべきでありましょう。そのような人は管仲(春秋時代、斉の桓公に仕えた名宰相)に並ぶ、立派な人物といえましょう。(中略)
今のままでは神州の滅亡は間違いありません。本来の我が国にするには、劉邦や項羽、ナポレオンなどのような人物でなければ難しいことでしょう。しかしながら、今もってここに目をつける人がおりません。あなたは、人が思いもよらないような優れた見識を持つ武士です。どうか、あなたのお考えをお聞かせ頂きたいと願っております。
己未(安政六年:1859年)四月七日 辱交弟寅二白す(かたじけなくも弟としておつきあい頂いている寅次郎が申し上げる)
北山君 座下(手紙の宛名に添えて敬意を表す言葉)
私は野山獄に収監されておりますのでお会いすることは実に難しいかと思います。その上、臭く、汚い獄舎へお越し頂くのは大変失礼に存じます。しかしながら、萩へおいでになる時には、是非直接お会いし、心に思うことを全て語り合いたい、と昨年来より願い、待ち続けておりました。事を成就することは、衷心よりの願いであります。
原文掲載ページ
2013.02.22
二十一回猛士の説 現代語訳
私は天保元年、庚寅(こういん)元年(1830年)に杉家に生まれた。その後成長して、吉田家を継いだ。甲寅(安政元年)に罪を得て獄へ入った。夢に神が現れ、一枚の名刺を差し出された。それには「二十一回猛士(にじゅういっかいもうし)」とあった。夢から覚め考えるに、杉の字には二十一の形がある(注:松陰の実家は杉家。「杉」の字を分解し「十」「八」「彡(三)」の三つの数字に見立て、合算すると「二十一」になる)。吉田の字もまた二十一回の形がある(注:「吉」の字を分解すると「十一」と「口」になり、「田」の字を分解すると「口」と「十」になる。 これらを強引に組み立て直すと、「十一」と「十」、あわせて「二十一」、 「口」と「口」をあわせて「回」になる)。私の名前は寅(次郎)である。寅は虎である。虎の徳性は猛きことである。私の身分は低く、体は虚弱である。だから、この虎の猛々しさを師とするのでなければ、どうして立派な武士となることができようか。できはしない。
私は生まれてこのかた、猛々しい行動をとったことがおよそ三回ある(一回目は、東北旅行のために脱藩したこと。二回目は、藩士としての身分をはく奪されたにもかかわらず、「将及私言」など上書を藩主に意見具申したこと。三回目は、ペリー来航時に密航を試みた「下田渡海」をさす)。それで罪を得たり、非難され、今は獄に入れられ再び猛を行うことが出来ない。そして、猛のまだ成し遂げていないものは十八回ある。その責任もまた重いのである。神はおそらく、私が日々弱くなり、微力となって二十一回の猛を成し遂げられないことを恐れ、天意として私を啓発してくださったのであろう。とすれば、私が志と気を合わせ養うこともやむを得ないことである。
原文掲載ページ
私は生まれてこのかた、猛々しい行動をとったことがおよそ三回ある(一回目は、東北旅行のために脱藩したこと。二回目は、藩士としての身分をはく奪されたにもかかわらず、「将及私言」など上書を藩主に意見具申したこと。三回目は、ペリー来航時に密航を試みた「下田渡海」をさす)。それで罪を得たり、非難され、今は獄に入れられ再び猛を行うことが出来ない。そして、猛のまだ成し遂げていないものは十八回ある。その責任もまた重いのである。神はおそらく、私が日々弱くなり、微力となって二十一回の猛を成し遂げられないことを恐れ、天意として私を啓発してくださったのであろう。とすれば、私が志と気を合わせ養うこともやむを得ないことである。
原文掲載ページ
2013.02.22
至誠而不動者未之有也 現代語訳
吉田松陰が、安政の大獄により江戸に送られる直前に、小田村伊之助に宛てた文章。
「至誠にして動かざる者はいまだこれ有らざるなり(吉田松陰が座右の銘とした孟子の言葉で、誠を尽くして人に接すれば、心を動かさないものはこの世にない。まごころを十分に発揮しようと思い努力することこそが人の道である、という意味の言葉)
私は学問をする事二十年、年齢は三十歳である。しかし、いまだにこの一語の意味を良く理解することが出来ない。今ここに江戸へ送還されることとなった。出来ることならば、この身でこの一語が正しいかどうか否かを証明してみたい。そこで、死ぬか生きるかという非常のことは、しばらく意識の外としたい。己未(安政六年:1859年)五月
二十一回猛士(吉田松陰が使用した号の一つ)」
原文掲載ページ
「至誠にして動かざる者はいまだこれ有らざるなり(吉田松陰が座右の銘とした孟子の言葉で、誠を尽くして人に接すれば、心を動かさないものはこの世にない。まごころを十分に発揮しようと思い努力することこそが人の道である、という意味の言葉)
私は学問をする事二十年、年齢は三十歳である。しかし、いまだにこの一語の意味を良く理解することが出来ない。今ここに江戸へ送還されることとなった。出来ることならば、この身でこの一語が正しいかどうか否かを証明してみたい。そこで、死ぬか生きるかという非常のことは、しばらく意識の外としたい。己未(安政六年:1859年)五月
二十一回猛士(吉田松陰が使用した号の一つ)」
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2013.02.21
吉田松陰から高杉晋作への死生観に関する手紙(安政六年七月) 現代語(超)訳
あなたは(高杉晋作)は私にこう質問しました。「男らしい男として、どういう時に死んだらいいのでしょうか?」。
そのことについてですが、私は昨年の冬から『死』の一字についてはずいぶん考えが深まりました。明の思想家・李卓吾の焚書を読んだお陰です。さて、それではその書に、どういうことが書いてあったのか、ということですが、話だせばきりがありません。今、その要点を言うとこういうことになります。
『死は、好むものではない。また、憎むものでもない。正しく生ききれば、やがてココrが安らかな気分になる時がくる。それこそが死ぬべき時である』
世の中には、たとえ体だけ生きていて心が死んでしまってる…という人がいます。その逆に、体は滅びても魂は生きている…という人もいます。たとえ生きていても、心が死んでしまっていたのでは何の意味もありません。逆に体は滅びても魂が残るのであれば死ぬ意味はあるでしょう。また、それとは別に、こういう生き方もあります。優れた能力がある人が、恥を忍んで生き続け、立派な事業を成し遂げる…ということです。
たとえば、明の徐階という人は、悪い政治がおこなわれていた時、正しいことをした部下を見殺しにしています。これは酷いことかもしれません。しかし、そのあとでその悪い政治の大もとになっている人物を追放し、正しい政治改革を成し遂げました。これは、そういう生き方の一例です。
また、私心もなければ私欲もない…という立派な人物が時のはずみで、死ぬべき時に死なないまま生きながらえてしまう…ということもあります。しかし、それはそれで何の問題もありません。南宋の文天祥は、元の軍隊に捕らえられ、獄中で四年間生きながらえています。これは、その一例です。
ですから、死んで自分が不滅の存在になる見込みがあるのなら、いつでも死ぬ道を選ぶべきです。また、生きて、自分が国家の大業をやり遂げることができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべきです。生きるとか死ぬとか…、それは『かたち』にすぎないのであって、そのようなことにこだわるべきではありません。今の私は、ただ自分が言うべきことを言う…ということだけを考えています。
引用:【新訳】留魂録-吉田松陰の死生観- 松浦光修著(PHP研究所)
幕末の革命児・高杉晋作ページ
そのことについてですが、私は昨年の冬から『死』の一字についてはずいぶん考えが深まりました。明の思想家・李卓吾の焚書を読んだお陰です。さて、それではその書に、どういうことが書いてあったのか、ということですが、話だせばきりがありません。今、その要点を言うとこういうことになります。
『死は、好むものではない。また、憎むものでもない。正しく生ききれば、やがてココrが安らかな気分になる時がくる。それこそが死ぬべき時である』
世の中には、たとえ体だけ生きていて心が死んでしまってる…という人がいます。その逆に、体は滅びても魂は生きている…という人もいます。たとえ生きていても、心が死んでしまっていたのでは何の意味もありません。逆に体は滅びても魂が残るのであれば死ぬ意味はあるでしょう。また、それとは別に、こういう生き方もあります。優れた能力がある人が、恥を忍んで生き続け、立派な事業を成し遂げる…ということです。
たとえば、明の徐階という人は、悪い政治がおこなわれていた時、正しいことをした部下を見殺しにしています。これは酷いことかもしれません。しかし、そのあとでその悪い政治の大もとになっている人物を追放し、正しい政治改革を成し遂げました。これは、そういう生き方の一例です。
また、私心もなければ私欲もない…という立派な人物が時のはずみで、死ぬべき時に死なないまま生きながらえてしまう…ということもあります。しかし、それはそれで何の問題もありません。南宋の文天祥は、元の軍隊に捕らえられ、獄中で四年間生きながらえています。これは、その一例です。
ですから、死んで自分が不滅の存在になる見込みがあるのなら、いつでも死ぬ道を選ぶべきです。また、生きて、自分が国家の大業をやり遂げることができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべきです。生きるとか死ぬとか…、それは『かたち』にすぎないのであって、そのようなことにこだわるべきではありません。今の私は、ただ自分が言うべきことを言う…ということだけを考えています。
引用:【新訳】留魂録-吉田松陰の死生観- 松浦光修著(PHP研究所)
幕末の革命児・高杉晋作ページ
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