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2013.02.22
松下村塾記 現代語訳
松下村塾記
長州の国は、山陽の西の端、辺鄙(へんぴ)な所にある。さらに萩城は、中国山地の北にある。しかし、大陸に対しては重要な地である。ここは日本海を背にして山に面し、山陰にあるため曇りがちである。古くは、石見の国(島根県西部)の吉見氏がこの萩に屋敷を造り暮らした所で、昔から歴史の表舞台に上がることはなかった。この地に萩城が築かれてから二百年。今は長州藩政府の所在地である。ここには、山や海の産物が四方から集まり、厳然たる一都会である。そして、萩城の東の外れにあるのが、我が松下村(松本村)である。(中略)
萩城、つまり長州藩が表に出なくなってから随分と時間が過ぎた。しかし、これは本当の姿ではない。これから起こりうる大きな動きの前兆に過ぎない。
東のことを中国では「震」といい、震は「すべてのものが生まれる所」という。東は、震い動かすものの象徴である。萩城、いわゆる長州藩が大きな活動をする時には、その人材は、必ずこの松本村より出るだろう。
昨年、私は野山獄から出ることを許され、松本村の実家にいる。しかし、外の人には会っていない。母方の叔父久保先生と従兄弟たちが時々訪れてくれるので、道徳や学芸を講義している。(中略)
私の一族の盛んなところは、この小さな村を震い動かそうとしていることである。玉木文之進先生は生徒を集めて教えl塾の名前を「松下村塾」とし、入り口に掲げた。その叔父は、すでに官職に就き、塾の名前をしばらく使っていない。久保五郎左衛門先生は、村の子供達を集めて教え、松下村塾の名前をそのまま受け継いだ。(中略)
私はこう思う。「学ぶこと」とは、「人間とは何かを学ぶこと」である。この松本村の人々が、家では父母に孝を尽くし、年長者によく仕え、また外では、主君に忠義を尽くし、他人に信義を尽くせるならば、塾名に村に名前を掲げても、何ら恥じることはない。
そもそも人として最も重んずべきことは、君主と臣下の間で守るべき正しい道(君臣の義)である。また、国において最も大切なことは、日本と外国との違いを明確にすること(華夷の弁)である。今の日本はどうであろうか。君臣の義は、鎌倉幕府から六百年もの間、論じられていないし、近年は華夷の弁も失っている。(中略)
内に対しては君臣の義を失い、外に対しては華夷の弁を忘れるならば、学ことの本当の意味や、人が人としてある意味はどこにあろう。玉木文之進、久保五郎左衛門、二人の先生は、この事態に心を痛められた。私がこの松下村塾記を作らざるを得なかったのは、こういう理由があるからである。
久保五郎左衛門先生は、上に立つ人は、君臣の義、華夷の弁を明らかにし、庶民には「家にあっては父母に孝を尽くし、年長者によく仕え、外においては主君に忠義を尽くし、他人に信義を尽くすことだ」と子弟を教え諭された。優れた人が起ち上がり、この山や川に残る憤りや恨みを変え、我が長州藩を徐々に立派なものにする、つまり萩城を真の姿にするのは「ここ松本村から」としたい。単に立派で優れた場所や都会からだけでではないのである。長州は、西の端にあるとはいえ、日本を奮い起こし、四方の異民族を震い動かすことができる。私は、罪を犯し囚われの身であるが、幸いに一族と共にある。二人の先生の後を継ぐためには、進んで努力をしなければならない。
久保五郎左衛門先生は「お前の言うことが大きすぎて、私だったらそこまではしない。まず、松本村の人に今、何が必要かを聞く」という。
私は答えた。「中国後漢時代の故事によると、月の第一日目に人物を評価したという。それに倣い、私も生徒のために評価しようと思う。基準を三段階に分けて、その中を更に二つに分けて六科にする。そこで、生徒に自分がどの場所にいるかを示し、毎月一日に人物評価の上げ下げをして勤勉か怠惰かを見よう。学問に対する姿勢を『上等』、『中等』、『下等』とする。この三等六科は、志の現れであり、心のあり方である。実行できないことはない。松本村の人々が進んで、お互いに『上等』と評価するようになれば良い。私は、この松下村塾記の初めに、長州に何か起こる前触れがあるとすれば、この松下村塾のある松本村から始まるだろうと書いたが、皆がお互いに進もうとするなら、これは必ずしも大したことではない」。すると、久保先生は「よろしい」と言われた。従ってこれも記しておく。
安政三年丙辰九月 吉田矩方選す
【引用】二十一回猛士(吉田松陰) ザメディアジョン
原文掲載ページ
長州の国は、山陽の西の端、辺鄙(へんぴ)な所にある。さらに萩城は、中国山地の北にある。しかし、大陸に対しては重要な地である。ここは日本海を背にして山に面し、山陰にあるため曇りがちである。古くは、石見の国(島根県西部)の吉見氏がこの萩に屋敷を造り暮らした所で、昔から歴史の表舞台に上がることはなかった。この地に萩城が築かれてから二百年。今は長州藩政府の所在地である。ここには、山や海の産物が四方から集まり、厳然たる一都会である。そして、萩城の東の外れにあるのが、我が松下村(松本村)である。(中略)
萩城、つまり長州藩が表に出なくなってから随分と時間が過ぎた。しかし、これは本当の姿ではない。これから起こりうる大きな動きの前兆に過ぎない。
東のことを中国では「震」といい、震は「すべてのものが生まれる所」という。東は、震い動かすものの象徴である。萩城、いわゆる長州藩が大きな活動をする時には、その人材は、必ずこの松本村より出るだろう。
昨年、私は野山獄から出ることを許され、松本村の実家にいる。しかし、外の人には会っていない。母方の叔父久保先生と従兄弟たちが時々訪れてくれるので、道徳や学芸を講義している。(中略)
私の一族の盛んなところは、この小さな村を震い動かそうとしていることである。玉木文之進先生は生徒を集めて教えl塾の名前を「松下村塾」とし、入り口に掲げた。その叔父は、すでに官職に就き、塾の名前をしばらく使っていない。久保五郎左衛門先生は、村の子供達を集めて教え、松下村塾の名前をそのまま受け継いだ。(中略)
私はこう思う。「学ぶこと」とは、「人間とは何かを学ぶこと」である。この松本村の人々が、家では父母に孝を尽くし、年長者によく仕え、また外では、主君に忠義を尽くし、他人に信義を尽くせるならば、塾名に村に名前を掲げても、何ら恥じることはない。
そもそも人として最も重んずべきことは、君主と臣下の間で守るべき正しい道(君臣の義)である。また、国において最も大切なことは、日本と外国との違いを明確にすること(華夷の弁)である。今の日本はどうであろうか。君臣の義は、鎌倉幕府から六百年もの間、論じられていないし、近年は華夷の弁も失っている。(中略)
内に対しては君臣の義を失い、外に対しては華夷の弁を忘れるならば、学ことの本当の意味や、人が人としてある意味はどこにあろう。玉木文之進、久保五郎左衛門、二人の先生は、この事態に心を痛められた。私がこの松下村塾記を作らざるを得なかったのは、こういう理由があるからである。
久保五郎左衛門先生は、上に立つ人は、君臣の義、華夷の弁を明らかにし、庶民には「家にあっては父母に孝を尽くし、年長者によく仕え、外においては主君に忠義を尽くし、他人に信義を尽くすことだ」と子弟を教え諭された。優れた人が起ち上がり、この山や川に残る憤りや恨みを変え、我が長州藩を徐々に立派なものにする、つまり萩城を真の姿にするのは「ここ松本村から」としたい。単に立派で優れた場所や都会からだけでではないのである。長州は、西の端にあるとはいえ、日本を奮い起こし、四方の異民族を震い動かすことができる。私は、罪を犯し囚われの身であるが、幸いに一族と共にある。二人の先生の後を継ぐためには、進んで努力をしなければならない。
久保五郎左衛門先生は「お前の言うことが大きすぎて、私だったらそこまではしない。まず、松本村の人に今、何が必要かを聞く」という。
私は答えた。「中国後漢時代の故事によると、月の第一日目に人物を評価したという。それに倣い、私も生徒のために評価しようと思う。基準を三段階に分けて、その中を更に二つに分けて六科にする。そこで、生徒に自分がどの場所にいるかを示し、毎月一日に人物評価の上げ下げをして勤勉か怠惰かを見よう。学問に対する姿勢を『上等』、『中等』、『下等』とする。この三等六科は、志の現れであり、心のあり方である。実行できないことはない。松本村の人々が進んで、お互いに『上等』と評価するようになれば良い。私は、この松下村塾記の初めに、長州に何か起こる前触れがあるとすれば、この松下村塾のある松本村から始まるだろうと書いたが、皆がお互いに進もうとするなら、これは必ずしも大したことではない」。すると、久保先生は「よろしい」と言われた。従ってこれも記しておく。
安政三年丙辰九月 吉田矩方選す
【引用】二十一回猛士(吉田松陰) ザメディアジョン
原文掲載ページ
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