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あなたは(高杉晋作)は私にこう質問しました。「男らしい男として、どういう時に死んだらいいのでしょうか?」。

そのことについてですが、私は昨年の冬から『死』の一字についてはずいぶん考えが深まりました。明の思想家・李卓吾の焚書を読んだお陰です。さて、それではその書に、どういうことが書いてあったのか、ということですが、話だせばきりがありません。今、その要点を言うとこういうことになります。

『死は、好むものではない。また、憎むものでもない。正しく生ききれば、やがてココrが安らかな気分になる時がくる。それこそが死ぬべき時である』

世の中には、たとえ体だけ生きていて心が死んでしまってる…という人がいます。その逆に、体は滅びても魂は生きている…という人もいます。たとえ生きていても、心が死んでしまっていたのでは何の意味もありません。逆に体は滅びても魂が残るのであれば死ぬ意味はあるでしょう。また、それとは別に、こういう生き方もあります。優れた能力がある人が、恥を忍んで生き続け、立派な事業を成し遂げる…ということです。

たとえば、明の徐階という人は、悪い政治がおこなわれていた時、正しいことをした部下を見殺しにしています。これは酷いことかもしれません。しかし、そのあとでその悪い政治の大もとになっている人物を追放し、正しい政治改革を成し遂げました。これは、そういう生き方の一例です。

また、私心もなければ私欲もない…という立派な人物が時のはずみで、死ぬべき時に死なないまま生きながらえてしまう…ということもあります。しかし、それはそれで何の問題もありません。南宋の文天祥は、元の軍隊に捕らえられ、獄中で四年間生きながらえています。これは、その一例です。

ですから、死んで自分が不滅の存在になる見込みがあるのなら、いつでも死ぬ道を選ぶべきです。また、生きて、自分が国家の大業をやり遂げることができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべきです。生きるとか死ぬとか…、それは『かたち』にすぎないのであって、そのようなことにこだわるべきではありません。今の私は、ただ自分が言うべきことを言う…ということだけを考えています。


引用:【新訳】留魂録-吉田松陰の死生観- 松浦光修著(PHP研究所)


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